カシジェーストーリー

与那国島での出会い

「まるで泥。こんな食べ物があったなんて」

初めてカシジェーを見た時、私はその見た目のインパクトに圧倒されました。

豊年祭の準備で島中が慌ただしくしていた夏の日。
私は、日本最西端の島・与那国島で、カシジェーに出会いました。

友人の與那覇有羽さんが、

「せっかくだから、与那国らしいものを作るね」

そう言って、自宅の台所で作ってくれたのが、「カシジェーの和え物」でした。

カシジェーとは、泡盛を蒸留した後に残る酒粕のことです。

泡盛は、沖縄の在来菌である黒麹菌を使って造られるお酒。そのカシジェーには、黒麹や酵母由来のアミノ酸やクエン酸などが豊富に含まれています。

栄養価が高いにも関わらず、現在は多くが廃棄されています。

かつて琉球王朝時代には養生食として食べられていましたが、今では、この与那国島を除いて、ほとんど食文化として残っていません。

けれど、与那国島では今もなお、暮らしの中にカシジェーがあります。

酒造所に瓶を預けておくと、蒸留日にカシジェーを入れておいてくれるのです。

「カシジェーできたよ」

そんな電話がかかってくると、島の人たちは嬉しそうに受け取りに行きます。

有羽くんは言いました。

「昔から食べてるから、みんなカシジェーが大好きなんだよ。楽しみにしてるわけさ。取りに行けないおばあには、僕が届けたりもするんだ」

その表情は、とても誇らしげでした。

与那国島の知恵

その夜、有羽くんは「カシジェーの和え物」を作ってくれました。

島で獲れた新鮮なカツオをぶつ切りにし、大きなボウルへ入れる。そこに、庭で摘んできたサクナ、ピパーチ、ニガナなどの野草を刻んで加えていきます。

最後に、一升瓶に入ったカシジェーを豪快に回しかける。

鮮やかな緑だった野草は、みるみる泥色へと染まっていきました。

そして醤油をひと回し。
ざっざっと混ぜ合わせて完成です。

私は、その大胆さにも驚きました。

すると有羽くんは、

「普通の和え物は、和えたらすぐ食べるっしょ。でもこれは違う。少し時間を置いて、野菜の汁とカシジェーを馴染ませるんだよ」

そう言って、最後に器を両手で持ち上げました。

「最後、この汁を飲み干すのが一番うまいんだ」

栄養のある食べ物が限られていた島にとって、カシジェーは貴重な栄養源でした。

だから、一滴も無駄にしない。

その食べ方には、沖縄の先人たちの知恵が詰まっていました。

さらに、亜熱帯の気候の中で、クエン酸による防腐作用も理にかなっている。

私は感動していました。

「昔の人たちは、なんてすごいんだろう」

と。

王朝時代の養生食

後に調べる中で、「御膳本草」という琉球王朝時代の食養生本にも、カシジェーの記載があることを知りました。

かつては、泡盛を造る地域では、どこでもカシジェーが食べられていたのではないかと言われています。

特に刺身との相性が良く、与那国島の「カシジェーの和え物」は、沖縄郷土料理である酢味噌和えの原型とも言われています。

本来はカシジェーが担っていた役割を、時代と共に酢や味噌が代替していったのです。

その食文化は首里から徐々に広がり、やがて姿を変えていった。

けれど、日本最西端の与那国島だけには、昔の形が奇跡のように残っていました。

それが、有羽くんの作ってくれた「カシジェーの和え物」だったのです。


「お荷物」と呼ばれたもの

その後、私は『沖縄 いつもの家族ごはん』の取材を終え、島を離れました。

カシジェーのことを再び思い出したのは、本が出版された後のことです。

出版記念パーティーの景品としてカシジェーを出そうと思い、本島の酒造所を訪ねました。

すると、そこで衝撃的な言葉を聞くことになります。

「酒造所にとって、カシジェーはお荷物」

私は耳を疑いました。

与那国島では、あんなにも人々が楽しみにしていたものが、“お荷物”だと言うのです。

泡盛は、発酵後にアルコールだけを蒸留します。
その後に残るのがカシジェーです。

しかも、その量は、泡盛原酒の約1.66倍にもなると言います。

一部は、もろみ酢や飼料、肥料として活用されているものの、行き場を失ったカシジェーは、産業廃棄物として費用をかけて処分されていました。

さらに近年、泡盛業界はお酒離れの影響もあり厳しい状況にあります。

そんな中で、処分費は大きな負担でした。

私は混乱しました。


「もしかしたら凄いものかもしれない」

出版パーティーで配る予定だったカシジェーは、結局、料理人の友人二人に託しました。

「ちょっと料理に使ってみて」

そう言って渡したのです。

すると一人は、次々とレシピを送ってくれました。

「意外と普通に使えるんだ」

私は少し驚きました。

そしてもう一人は、こう言いました。

「えりさん、これ、もしかしたら凄いものかもしれないよ」

さらに、

「誰もやってないなら、えりさんがやってみたら?」

とも言ってくれました。

けれど、その時の私は、まだピンと来ていませんでした。

「そうなのかな?」

その程度の反応でした。

今思えば、あの時の二人の言葉は、大きなパスだったのだと思います。


有羽くんが倒れた

そんな頃、突然、有羽くんが病に倒れました。

病名は、大動脈解離。

一時は意識不明になるほどの重体でした。

今も施設でリハビリを続けています。

有羽くんは、与那国島にとって、とても大切な存在です。

豊年祭では地謡として皆をまとめ、三線を奏で、教える役割を担っていました。

さらに、与那国民謡を唄う唄者であり、民具作家でもあります。

与那国の文化を受け継ぎ、伝える人でした。

だからこそ、私たちはすぐに支援のためのカンパを始めました。

けれど、友人がぽつりと言ったのです。

「有羽くんが元気になるまで、長い時間がかかるかもしれない。継続的に支える仕組みを作れないかな」

その時の私は、何も思いつきませんでした。


人生最大の閃き

けれど、その一ヶ月後。

突然、頭の中で全てが繋がりました。

「そうだ。カシジェーだ!」

有羽くんが教えてくれたカシジェー。

「凄いものかもしれない」と友人が言ったカシジェー。

けれど、酒造所では“お荷物”として扱われているカシジェー。

もしこれが、与那国島のように日常の食文化として広がったなら。

沖縄の知恵や文化を残せるかもしれない。

酒造所を支えることにも繋がるかもしれない。

そして何より、有羽くんとその家族を、継続的に支える仕組みになるかもしれない。

「なんてすごいことを思いついてしまったんだろう」

私は一人、興奮していました。


「それでもやる?」

けれど、現実は甘くありませんでした。

カシジェーを食材として本格的に活用している人は、ほとんどいなかったのです。

過去にも挑戦した人はいたそうですが、皆、途中で断念していました。

そんな中、ある日、県の研究職の方から強く反対されました。

「カシジェーは栄養も水分も豊富だから、雑菌が繁殖しやすい。もし何かあれば、あなた一人の問題では済まない。業界全体に迷惑がかかる」

その言葉は重く、私は呆然としました。

帰り道、悔しさと悲しさが込み上げ、車を運転しながら涙が止まりませんでした。

「やっぱり無理なのかな」

そう思いました。

けれど、また友人が言ってくれました。

「それでやめるの?」

「試されてるだけだよ。“それでもやるのか”って」

その言葉に、私は救われました。

なぜかわからない。

けれど私は、どうしてもカシジェーを諦められなかったのです。


カシジェー事業の始まり

こうして私は、友人たちに背中を押されながら、カシジェーに取り組むことを決めました。

数ヶ月後、初めて「カシジェーの宴」を開催しました。

友人たちに協力してもらい、カシジェー料理を振る舞う小さな会でした。

そして私は、「ライター」という肩書きを、「カシジェー料理研究家」へ変えました。

2023年5月。

有羽くんが倒れてから、5ヶ月後のことでした。


気づいてしまったこと

それからの私は、夢中でした。

料理教室を開き、イベントを開催し、県外でも話をするようになりました。

カシジェー入り沖縄そばのイベント。
カシジェー関連商品を集めたお祭り。

そのたびに、私は必ず、有羽くんの話をしました。

どうして自分がカシジェーに取り組むようになったのか。

その原点には、いつも有羽くんがいました。

そして私は毎回、「カシジェーの和え物」を原型にした料理を作りました。

有羽くんが教えてくれた、沖縄の先人の知恵を伝えたかったからです。

そんなある日、私は突然気づきました。

「あの日、有羽くんは、“私に伝えてほしくて”、カシジェーを食べさせてくれたんだ」

民具の話をしてくれたのも、実際に触らせてくれたのも、全部。

“残したいもの”を、私に渡していたのだと。


有羽くんが守ろうとしていたもの

有羽くんは、民具作家でもありました。

島を離れていた十年間の間に、暮らしの道具がプラスチックへ置き換わっていたことに衝撃を受け、島へ戻って民具を作り始めたそうです。

周囲に反対されても、やめませんでした。

「大切なことだから」

そう言って。

例えば、クバの柄杓は、人の手の動きまで考えて作られています。

農作業用の笠と漁業用の笠は、形が違います。

畑用は、日差しを防ぐためにつばが広い。
海用は、風を受けすぎないよう縦型の形になっている。

さらに、海水が入った時にはバケツ代わりにもなる。

そこには、島で生き抜くための知恵が詰まっていました。

身近な植物で作り、壊れたら修理しながら、長く使い続ける。

大量消費が当たり前になった今だからこそ、その価値が見えてくる気がします。

そして私は思いました。

カシジェーも、同じなのだと。

先人たちの知恵が詰まったもの。

本来なら、未来へ受け継がれていくはずだったもの。


受け取ってしまったもの

ある日、施設にいる有羽くんに聞いてみました。

「私に、与那国の文化を伝えてほしかったんだよね?」

すると有羽くんは、何度も笑顔でうなずいてくれました。

「うん、うん」

その姿を見た時、私は確信しました。

ああ、本当にそうだったんだ、と。

それからの私は、以前にも増して、有羽くんの思いを胸に活動しています。

カシジェーを広げることは、単なる食材活用ではありません。

沖縄の先人たちの知恵を、未来へ手渡していくこと。

そして、与那国島で受け取った大切なバトンを、次の世代へ繋いでいくことなのだと思っています。